『大日本史料』第三編(保安二・三年分)編纂メモ

保安二年(1121)・同三年(1122)と単純に変換しています。雑載は0月、閏月は空いているところに。

正字主義

 『大日本史料』の用いる文字は、原則として正字(旧字)を用いてきました。(実は正字というもの自体に、便宜的な側面があります。)写本・活字本を問わず、底本に「藤原忠実」とあっても、「忠實」と直しています。実際にやっていてかなり違和感の強い時もありますが、様々な性格の史料を掲載する場合のひとつの(唯一ではない)方針です。
 ただそれも厳密ではなく、略字を使用したり、元の字形を残したりしています。単純な見逃しの場合と意図的な場合とがあります。(小生の注意力では限界がありますので、さほど意味に関わらない部分で気にしすぎないことにしています。)
 活字となった史料集は、何らかの方針で用字が整理されています。ですから、単なる不統一でなく、出典(活字本)に忠実という考え方で、新字・旧字、読点なし・読点のみ・句点も使用、の史料引用が混在する論文には、首をひねります。また、無理な異体字の使用、膨大な用字表にも、意図を量りかねることがあります(字体そのものが研究課題や資料の時代性に関わる場合は別です)。史料集にせよ論文にせよ、史料が持っている情報の何かを捨象して標準化することは避けえません。
 この「編集メモ」は補助的・便宜的なものですので、通行の字体を用い、簡単に出てこない文字は〓、梵字は▲として、必要に応じて括弧で補うことにします。

(追加)こういうことも逆方向に考えて史料は読むようにしています。
カルロ・ギンズブルグ「徴候」(竹山博英訳『神話・寓意・徴候』せりか書房、一九八八年)196〜7頁。
文献学の対象となるテキストは、固有の特徴を大幅に捨て去ることによって作られたのである。
(中略:文字の発明により、朗唱・仕種に関する要素を、印刷術の発明により、書記形態についても。)
テキストは感覚でとらえうるあらゆる要素を除去され、徐々に物質的性格を失うことになった。しかし何か一つでも感覚でとらえうる要素がなければ、テキストは生き残れない。だがこうして作られたテキストは本来のテキストと同一ではないのだ。